インタビュー

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旬な人 加藤太一郎(前編)

目の前の収穫だけを考えるのではなく、
将来の実りのために耕さなければなりません。


加藤 太一郎
焼津信用金庫 理事長

別名、まるせい。全国に数多くある信用金庫の中でも、ニックネームを持つ焼津信用金庫。
今年6月、この金融機関に新しい理事長が誕生した。
お話をうかがったのは、昨年の100周年に当たって建てられた新本部。
中庭には焼津港を表現した水盤、外構のレンガには氷庫、
玄関の柱や階段の手すりなどは八丁櫓をイメージした造りとなっていて、まるで博物館のよう。
そんな落ちついた雰囲気の中で、学生時代から理事長になるまでを振り返ってくれた加藤理事長をご紹介します。

地域の歴史、必要性の中から
生まれた信金です。


「まず、焼津信用金庫という名称以外に、なぜ”まるせい“という呼び名が付いているのかをお話ししたいと思います。当金庫の前身である焼津生産組合が創立されたのは1908年のこと。当時、この地の人たちは、漁場である伊豆七島の方まで八丁櫓という手漕ぎ船で行ったといいます。大変な危険が伴いますし、多くの労働力が必要だったでしょう。漁獲量にも限界があります。石油発動機船を…という動きが起こるのも当然のことでした。組合は6隻の石油発動機船を造り、組合員に貸与したのです。屋号は、生産の生を○で囲んで”まるせい“。当金庫は当初から地域産業の牽引役として、必然性の中から産まれ現在の焼津を築いてきたのです」。

1969年に入庫以来、信金マンとして勤めてきた加藤理事長は、話をこう切り出した。なぜだろう?スタートから理事長に就任するまでの行動のすべてに、”まるせい“の名に込められてきた”地域のために“という基本原理は、彼がどの支店に勤務し、どのような役職に就こうと変わることはなかった。そのことを最初に伝えたかったのではないか。信金の歴史を重ね合わせて、自分のこれまでを総括したのだろう。

盛り返し始めた経済。
その血液である金融は、魅力でした。


「父は、割烹旅館を経営していました。大学は法科を選びましたが、実家の仕事を多少なりとも理解しておこうと、大学でホテル・観光の講座を取り、夏休みにはホテルマウント富士に40日間ほどの研修に出かけたこともあります。接客という面では信金と変わりませんし、楽しかったですが後を継ぐことは考えなかったですね。それ以上に、経済に魅力を感じていましたから…。私の卒業時は、東京オリンピック後に下り坂になった経済が盛り返し始めた時期。まさに金融は経済の血液という感じで、金融業界を選んだわけです。ただ、高校の友人たちもそうだったように、長男は大学を出たら地元に帰るという思いが強く、この地に就職先を求めたのです」。

信頼を基本に資金を集める。それを融資することで地域を活性化しながら、そこで営む企業を大きくしていく。それが、地域に根ざした信用金庫のありかただ。しかし経済サイズが大きくなっていけば、比例して金融機関もスケールは大きくなっていく。その原動力となるのがエリアの拡大。彼が入庫したのは、そんな状況の時。焼津信用金庫が、静岡進出の拠点として、当時9店舗目となる静岡支店を開店して3年目の時だった。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
加藤 太一郎
(かとう たいちろう)

昭和22年生まれ。
昭和44年3月、立教大学法学部卒業。
同4月、焼津信用金庫入庫。
平成4年4月、総務部副部長。
平成7年4月、藤枝上支店長。
平成9年4月、静岡支店長
。平成11年4月、藤枝駅支店長。
平成14年4月、審査部長、同年6月、常勤理事就任。
平成19年6月、常務理事就任。
平成21年6月、理事長就任。