
松下明弘
余分な手をかけて、
ダメにしているんじゃないかな?
不耕起有機農法。基本、彼は田んぼを耕さない。耕すことは人のすること。自然界の中では不自然な行為だと、アフリカの人たちと大地に教わり、経験から身に付けてきたものだ。ただ、その前段階は徹底してやる。ひたすら田んぼを平らにする。しっかりした畦を作る。自家製の肥料づくりにも余念がない。種や稲を植える5月までは真剣勝負だ。
「稲だけじゃないよ、生き物をダメにするのは人間の欲なんだ。一粒でも多く収穫したいっていう気持ちがあるから、ちょと育ってきてものを見て葉色が悪けりゃ、やれ化学肥料だ、やれ農薬だって。人間でいえばメタボみたいなもん。糖尿病にするつもりかって。昔から、土の中の乏しい栄養を奪い合って生き延びてきた生命だよ。もっと信じなきゃ。だから僕は、自然の力が発揮できる状態にするためにベストは尽くすけど、後は稲まかせ。自分の力で生き抜けと語りかけるけど、手出ししない。つらいけどね」。
持っているものすべて注がなきゃ、
山田錦なんて育てられない。
33歳。専業農家となった年に、山田錦を手がけ始めた。もともと山田錦は、少ない肥料でもよく育つという品種だが、倒れやすいなどさまざまな難しさを併せ持っていた。県内でも、先駆けて栽培してきた人たちはいたが、成功にまではいたらなかった。
「青島酒造の社長に、酒米の勉強をしたい、この手で育てたいって押し掛けたわけ。いきなり訪ねたのに、会ってくれてね。逆に”どうせなら、一番難しい山田錦をやって見ろ“って後押しまでされた。ほとんど手探り状態って感じだったけど、なんとか育ててね。それを酒にしてもらい搾りたてを蔵元のみんなで飲んだんだけど、誰も何もいわない。今まで、この地で育った山田錦がないものだから、米にも酒に対しても、みんなコメントのしようがなかったみたい。結局、社長が”2〜3年かけて売ればいい“って、純米大吟醸として1400本作ったら、2週間で売り切れたんだよ。順調な滑り出しという人もいるけど、偶然だったと思っている。簡単な米じゃないことは、今年で14年目になった今でも痛感するし、小手先の技術ではうまくいかない。自分の持っている感性や情熱を100%つぎ込んで作ってもまだ追いつかない感じだもん。命作るって、深いよね」。
カミアカリって、
神が僕に与えてくれたものかも…。
カミアカリ。平成17年、農林水産省に登録出願が受理された新種である。コシヒカリの突然変異によるもので、発見したのが平成10年のこと。いつものように、彼は稲の収穫状態を見届けに田んぼに入っていた。帰り際、間もなく家というところで、足が止まった。気になる稲があったのだ。夕日に透かすと、うっすらとした線が見える。よくよく確かめると、胚芽部分が通常の3倍以上もある巨大胚芽米だった。昼夜関係なく米のことを考えている人間のもとに現れた新種。神からの、彼への贈り物だった。
「株を引き抜き家に持ち帰って、背の高さや籾の粒数なんかを調べたんだ。僕のところで新しく生まれてきた命。なんとしても育てようと、その日から8年間は米作りと新種の育成の両輪で走ってきた。それだけに品種登録を受理してもらえた時はうれしかったな。そりゃそうだよね、ギャバを始め栄養分が高いし、食感も今までにはないもの。健康志向の人の間で玄米食がブームになっているけど、玄米を前提に作られる米は今までになかった。そんな中でのカミアカリの誕生。これで米の、農業の可能性が広がっていけばと思うと、ワクワクしちゃうな」。
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「農業って、農(みの)りの業(なりわい)なんだ。実りじゃなく、農り、ね。人を豊かにするために欠かせないもの。当たり前だよね、人類が生まれて最初に興した産業だもの」。
田んぼの中に入り、風になびく稲を、幸せそうな顔で見る。彼は自然と共に生き、自然体で生きている。
略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
松下明弘
(まつした あきひろ)
昭和38年、農家に生まれる。
農業高校卒業後、実習助手として農業の技術を磨く。
昭和62年、24歳の時に青年海外協力隊として東アフリカ・エチオピアへ渡る。
平成元年、兼業農家となる。
平成8年、33歳で稲作専業農家になり、酒米・山田錦を作り始める。
平成20年、コシヒカリの突然変異種・カミアカリが新品種として農林水産省に登録され