露無 慎二国立大学法人 静岡大学 副学長(国際担当) 理学博士
失敗を気に病むような生き方はしません。
基本的に、楽天家なんですよ。
「白金のナノ微粒子(ナノは100万分の1mm)に細菌ウイルスを分解する効果があることを実証した」。昨年10月、そして今年2月に、こんな新聞掲載があった。記事の主役は、静岡大学副学長の露無慎二教授だ。京都大学の小山宗孝准教授(ナノ工学)の協力を得ての研究成果。「どんなウイルスも基本構造は同じなので、新型インフルエンザウイルスやエイズウイルス(HIV)、新型肺炎(SARS)ウイルスなどでも、効果が期待できる」とも綴られている。パンデミックを経験したばかりだけに期待は大きい。話題の人、露無教授にお話をうかがった。
負けず嫌いなんですよ。
「野球、ジャズ、学者…。いろいろしてきたし今もしているけど、僕は、ネガティブなことを受け入れられない。ダメだったこと、失敗してしまったことを、そのまま”はい、そうですか“とはいかない。小さいときからです」。
本人の自戒(クリスチャンだから懺悔かな?)だから、そうなのだろう。ちなみに野球は、小学生の時から始め、大学の時も4番ピッチャー。天賦もあったのだろうが、負けない努力があればこそのポジションだ。ジャズだって、大学生から始めたにも関わらず、今も週末は静岡の”ドットクール“で、トリオ演奏をしている。そんな露無先生は、実に彼らしい理由で農学の道を選んでいく。
海外で人のためになる。
だからブラジルアマゾン奥地で植物のお医者さんに。
「高校の時、友人から将来は神父になると聞かされたんです。同い年なのに、もう将来のことをしっかり見すえていた。ちょっとショック。負けずに自分もと、これからのことを思案するようになった。思いついたのがブラジルアマゾンの奥地での農作物の研究。だから農学を選んだんです」。
いきなりブラジルが飛び出してきた。しかし露無先生にしてみれば、なにも唐突ではない。小さい時、親戚がブラジルに移民として渡航するのを見送った。その時から”大人になったら海外に出よう“という思いがあり、ブラジルはその代名詞。同時に、”人のためになれるような仕事を“考えたのは、中学生の頃からクリスチャンだったから。未開の地で現地の人の中に入り、自分の研究で微力なりとも役立ちたい。高校生にとっては破天荒な夢のように聞こえるが、露無先生にとっては、とても自分らしい道筋だった。
夢はたたれたけど、
前向いていれば、道は開けます。
「農学を学ぶかたわら、スペイン語を習得する日々でした。南米に行くと決めたわけだから、現地語の勉強は当たり前。自分なりに、着々とブラジル行きの準備を整えていたわけです。4年生の11月ごろには、コロンビアやブラジル行きの話がまとまりかけたのですが、事情によりダメになってしまいましてね。目的地を見失い、道に迷った状態です」。
でも、立ち止まらない。恩師の岡部徳夫先生に相談した末に、東京教育大学大学院(現・筑波大学)農学研究科に入学。一生のテーマである植物病理をさらに続けることになり、その基礎学問を究めるスタートとなった。そして、助教授であった後藤正夫先生の紹介で、カリフォルニア大学デービス校のリサーチアシスタントにと推薦してもらった。その後、6年半あまりのアメリカ暮らしとなるが、この期間に学んだこと、体験として感じたことが、自身の骨格を作ることになる。岡部先生という碩学との出会いが、露無という学者を産んだといっていいだろう。
略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
露無 慎二
(つゆむ しんじ)
昭和19年、上海市生まれ。
昭和42年、静岡大学農学部卒業後、東京教育大学農学研究科修士課程入学、
昭和43年1月に同校を中退して、カリフォルニア大学デービス校理学研究科修士課程微生物学専攻に入学、昭和45年に修了し、ハワイ大学理学研究科微生物学専攻博士課程に入学、昭和48年に修了。そのまま、バーデュー大学生命科学部の研究助手となる。
昭和49年10月に 静岡大学・助教授(農学部)として赴任、昭和56年カンサス州立大学・植物病理学部・客員教授、平成7年静岡大学教授(農学部)、平成19年静岡大学・副学長(国際担当)
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