インタビュー

旬な人 露無 慎二(前編)

露無 慎二
国立大学法人 静岡大学 副学長(国際担当) 理学博士

失敗を気に病むような生き方はしません。
基本的に、楽天家なんですよ。


「白金のナノ微粒子(ナノは100万分の1mm)に細菌ウイルスを分解する効果があることを実証した」。昨年10月、そして今年2月に、こんな新聞掲載があった。記事の主役は、静岡大学副学長の露無慎二教授だ。京都大学の小山宗孝准教授(ナノ工学)の協力を得ての研究成果。「どんなウイルスも基本構造は同じなので、新型インフルエンザウイルスやエイズウイルス(HIV)、新型肺炎(SARS)ウイルスなどでも、効果が期待できる」とも綴られている。パンデミックを経験したばかりだけに期待は大きい。話題の人、露無教授にお話をうかがった。

負けず嫌いなんですよ。

「野球、ジャズ、学者…。いろいろしてきたし今もしているけど、僕は、ネガティブなことを受け入れられない。ダメだったこと、失敗してしまったことを、そのまま”はい、そうですか“とはいかない。小さいときからです」。

本人の自戒(クリスチャンだから懺悔かな?)だから、そうなのだろう。ちなみに野球は、小学生の時から始め、大学の時も4番ピッチャー。天賦もあったのだろうが、負けない努力があればこそのポジションだ。ジャズだって、大学生から始めたにも関わらず、今も週末は静岡の”ドットクール“で、トリオ演奏をしている。そんな露無先生は、実に彼らしい理由で農学の道を選んでいく。

海外で人のためになる。
だからブラジルアマゾン奥地で植物のお医者さんに。


「高校の時、友人から将来は神父になると聞かされたんです。同い年なのに、もう将来のことをしっかり見すえていた。ちょっとショック。負けずに自分もと、これからのことを思案するようになった。思いついたのがブラジルアマゾンの奥地での農作物の研究。だから農学を選んだんです」。

いきなりブラジルが飛び出してきた。しかし露無先生にしてみれば、なにも唐突ではない。小さい時、親戚がブラジルに移民として渡航するのを見送った。その時から”大人になったら海外に出よう“という思いがあり、ブラジルはその代名詞。同時に、”人のためになれるような仕事を“考えたのは、中学生の頃からクリスチャンだったから。未開の地で現地の人の中に入り、自分の研究で微力なりとも役立ちたい。高校生にとっては破天荒な夢のように聞こえるが、露無先生にとっては、とても自分らしい道筋だった。

夢はたたれたけど、
前向いていれば、道は開けます。


「農学を学ぶかたわら、スペイン語を習得する日々でした。南米に行くと決めたわけだから、現地語の勉強は当たり前。自分なりに、着々とブラジル行きの準備を整えていたわけです。4年生の11月ごろには、コロンビアやブラジル行きの話がまとまりかけたのですが、事情によりダメになってしまいましてね。目的地を見失い、道に迷った状態です」。

でも、立ち止まらない。恩師の岡部徳夫先生に相談した末に、東京教育大学大学院(現・筑波大学)農学研究科に入学。一生のテーマである植物病理をさらに続けることになり、その基礎学問を究めるスタートとなった。そして、助教授であった後藤正夫先生の紹介で、カリフォルニア大学デービス校のリサーチアシスタントにと推薦してもらった。その後、6年半あまりのアメリカ暮らしとなるが、この期間に学んだこと、体験として感じたことが、自身の骨格を作ることになる。岡部先生という碩学との出会いが、露無という学者を産んだといっていいだろう。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
露無 慎二
(つゆむ しんじ)

昭和19年、上海市生まれ。 
昭和42年、静岡大学農学部卒業後、東京教育大学農学研究科修士課程入学、
昭和43年1月に同校を中退して、カリフォルニア大学デービス校理学研究科修士課程微生物学専攻に入学、昭和45年に修了し、ハワイ大学理学研究科微生物学専攻博士課程に入学、昭和48年に修了。そのまま、バーデュー大学生命科学部の研究助手となる。
昭和49年10月に 静岡大学・助教授(農学部)として赴任、昭和56年カンサス州立大学・植物病理学部・客員教授、平成7年静岡大学教授(農学部)、平成19年静岡大学・副学長(国際担当)


旬な人 杉山 清(後編)

杉山 清
杉山フルーツ 店主

フルーツを花のように。
ラッピングで演出しました。


「マーケットを掘り下げるだけでは足りません。ギフト専門店ですからね。お見舞いなど限られた商機では持ちこたえられません。誕生日やクリスマスなど、パーソナルの需要はいくらでもあるんですから…。だったら使い道を増やせばいいわけです。でも、どのように?花屋でピン!と来ました。花束がプレゼントの代名詞のようになっているのは、花そのものの素敵さもあるけど、ラッピングによる楽しさ、華やかさの演出によるところも大きいと」。

以前から奥さんの郁美さんはラッピングを学び、身につけていました。杉山さんも後に続きます。全日本ギフト協会が公認するラッピングコーディネーターの資格を取得。季節にあわせて変わるリボンの色。丸い箱に詰め合わせた”フルーツ玉手箱“やスイカを色つきセロハンで包んだ”ラッピングスイカ“、40種類ほどのバスケットやボックスなどなど。持ち合わせた遊び心で、次々とオリジナルラッピングを生み出しています。

信頼関係を築きたいから、
損得より善悪です。


「ありがたいことに”生フルーツゼリー“は毎日、早い時間に完売してしまいます。県外からわざわざ見えられていただいても買うことができない場合も少なくない。身を切られる思いですが、量産はしません。お客さまに喜んでいただける作品であり続けたいからです」。

”生フルーツゼリー“は、平日で300個、週末でも500個しか作られません。今では予約も4カ月待ちだそうです。買えるのは、お店と”ライブツアー“と呼んでいる出張販売だけ。有名百貨店などからの出店要請やコンビニからのライセンス契約も多々ありますが、丁重に断り続けています。作った作品は自分の子供。相手に届けるまで人任せにはできないくらい可愛いといいます。杉山さんの商いの根底にあるのは”損得ではなく善悪“ということ。儲かればの思いで、お客さまの信頼を裏切ることは”悪“なのです。食品偽装や改ざんなど嘘とごまかしの多い世の中で、一人抜きんでているように思えます。いえ、周りが沈下しているのでしょう。

売れない理由は店にある。
信念を持って、変えましょう。


「さまざまな講演会に立つ機会が増えました。皆さまに、よくお話しさせていただくのですが、売れない理由を、例えば”不景気だから“”駐車場がないから“などの外的要因にしていてはいけないと話します。アイデアやモチベーションは景気に左右されません。売れない理由を外に求めるのは、とても楽ですが、実際は店の中にあるのではないでしょうか。中身、お店の内容はもちろん、トップに立つ人、そしてそこで働く人の考え方が変わらなければ、変えられないと思います」。

最後の質問は”今からでも個人商店は立て直せますか?“というものでした。その答えです。ある人と出会い、気付きをもらい、一念発起する。とても素晴らしいことでしょう。ただ、それが継続するかとなると話が変わってきます。人は弱いものです。景気の風に迷うこともあるでしょう。けれど杉山さんは、こういっているのではないでしょうか。”儲け続けることはできないけれど、お客さまを喜ばせ続けることだけは、自分の意志でできる“のだと。



「店は舞台、シャッターは幕、店長や店員はプロデューサーでありキャスト。その毎日の繰り返しです。講演でも森光子さんを例えに話します」。 女優・森光子の”放浪記“は2000回を超えたそうです。すごいと思います。でも、その数字の始まりは1。その積み重ねが2000です。大女優の彼女の初演と現在の演技では、幅や奥行きが違うに決まっています。杉山フルーツの毎日も、日々新しい舞台なのでしょう。


略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
杉山清
(すぎやま きよし)
1960年、栃木県真岡市(旧・二宮町)生まれ。
’82年、杉山フルーツ入店。
’94年、吉原商店街にあった地元大型スーパー撤退により、ギフト専門店に。
’05年、“生フルーツゼリー”開発。
ギフト・ラッピングコーディネーター資格取得。
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会認定、ベジタブル&フルーツマイスター資格取得。

旬な人 杉山 清(前編)

杉山 清
杉山フルーツ 店主

商いは”損得“じゃなく”善悪“
お客さまを裏切ることはできません。


吉原商店街を最後に訪れたのは、もう数十年前のことです。久しぶりに歩いてみて驚きました。往事の賑わいはなく、約4割の店がシャッターを下ろしていたからです。しかし、そんな現状など”どこ吹く風“と、毎日行列ができる店があります。杉山フルーツ。ヒット作である”生フルーツゼリー“は、全国からお客さまが買い求めに来るほどの人気です。いま、日本で一番元気な個人商店。店主の杉山清さんを紹介します。

仕入れさえしていれば。
幸せな時代でした。


「信じてもらえないかも知れませんが、ここは、とても活気のある商店街でした。店の近くに大型スーパーが2店あり、買い物客は自然と集まり、格別なことをしなくても商売が成り立っていました。いい方が悪いけど、コバンザメ商法というやつです。仕入れさえしておけば売れる。ある意味、商店街にとって幸せな時代でした」。

当たり前ですが、何もせずに売れる時代は永遠のものではありません。市街地から郊外型大型店に。吉原商店街も例外ではなく、消費の変化という大波に見まわれることになります。1994年から1998年にかけて集約装置だったスーパーが相次いで撤退。商店街の衰退は、杉山フルーツという店の存亡の危機を意味します。

ピンチはチャンス。
生まれ変わるきっかけです。


「正直いうと、チャンスだと思いました。この店は妻の実家で、私は婿。お店が円滑に動いているときは、マスオさんはなかなか口を挟めませんからね。でも、店が潰れるかもしれないという状況では、婿だからなんて悠長なことはいってはいられない。他店に集客を頼っていられなくなった以上、独自の魅力でお客さまを集める。そんな店づくりが必要です。また、買い回り品中心では安売りの嵐にさらされます。価格競争で疲れることほどバカらしいことはありませんから、アイデアと努力が付加価値になる店がいい。考えた末に始めたのがギフト専門店です」。

最大のピンチは、最高のビジネスチャンス。いやでも変わらなければという、絶好のタイミングと捉えたのです。お店の再起を賭けた、そして本人が意識するしないにかかわらず、婿の面目躍如がかかった勝負が、フルーツギフトという武器を鍛えながら始まっていきます。

高級品や珍しい果物。
品揃えは専門店の生命線です。


「フルーツギフトと聞けば、多くの人は病院へのお見舞い品を思い浮かべるでしょう。当時、贈り物としての果物のマーケットは、とても狭かった。それでは、専門店は成り立ちません。狭いのであれば、深めればいい。普段食べる買い回り品はスーパーや量販店さんが安値を競っていましたが、贈答品となると求められるものが違います。多少値が張っても、良いものや喜ばれるものを。これがニーズです。高級品や珍しいものが受け入れられる要素は、そこにあります」。

充実した品揃えこそ、専門店が専門店である所以です。杉山さんは、ここにこだわりました。フルーツ王国・静岡の地元業者からの直接買い付け。東京・太田市場の卸業者との取引。仕入れルートを、着々と増やしていきました。現在、杉山フルーツでは、高級メロンを年間約9000個も売り上げていますが、この数字は高品質のバロメーターといっていいのではないでしょうか。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
杉山清
(すぎやま きよし)
1960年、栃木県真岡市(旧・二宮町)生まれ。
’82年、杉山フルーツ入店。
’94年、吉原商店街にあった地元大型スーパー撤退により、ギフト専門店に。
’05年、“生フルーツゼリー”開発。
ギフト・ラッピングコーディネーター資格取得。
日本ベジタブル&フルーツマイスター協会認定、ベジタブル&フルーツマイスター資格取得。


旬な人 曾布川尚民(後編)

曾布川 尚民
大学産業株式会社 代表取締役CEO

大いに学ぶ。だから“大学”です。 

「当時は、まだ赤痢や疫痢があり、父も薬局に防疫資材部を作り殺菌消毒剤を扱っていました。その販売権を貰い受けて、昭和42年に会社を起こした。でも水のことは何も知らない。井戸の水に薬を入れると、茶色や黒に変色する。分からないから保健所に聞く。水を吸い上げる仕組みが分からないからポンプやさんに教えを請う。書物を始め、自分以外は皆師匠です。だから社名は大学産業。大いに学ぼう!という、私の原点です」。

当時、多くは井戸水に頼っていたが、滅菌そして上下水道インフラの黎明期を迎え始めていた。役所関連を始め、100人以上の人に供給する簡易水道から上下水道まで、整備が急がれていた時代。”水“の仕事は、そんな背景を背負いながら動き出していった。

「あんたのところには」の屈辱がバネに。
今思えば、ありがたい言葉です。


「社員が8人位になるまでは、中途採用。でも将来を考えたら、理系の大卒社員が必要でした。思い立ったら即行動。静大工学部の教授を訪れ、私のところに来る学生はいないでしょうかと…。逆に資本金、従業員数を聞かれ、”そんな会社に行く学生はいないよ“と笑われました。世間知らずだったと思いながらも、そこまでいわれる筋合いはない。その屈辱感がバネになりました。全員、大卒の新卒にしてやると…」。

翌年から、すべて四大の新卒社員を採用。業務部の女子は高校の新卒、経理担当の急逝によるヘッドハンティングなど一部の例外はあるが、以来37年続けている。曽布川社長曰く、「あの一言があったからこそ続けてこられたのかも知れない」。今思えば、ありがたい一言だったという。

専門家じゃない。
だから新しい試みができるんだ。
 

「市の水道課長から、”君の会社、水に取り組んでいるんだろう。東海地震に備えて緊急用浄水装置を作れないか?“っていわれましてね。成せば成るが基本姿勢ですから、一品オーダーならできますと答えた。作ったのが現在の原型で、日本での開発は3番目。浜松、沼津と採用されていくのですが、県からも”見せてもらいたい“と要請があり、全国7社が駿府城のお堀に集まり試験をした。他社のものは、習熟した者だけが扱える浄水装置。比べて私が作った機械は、誰にでも簡単に扱える。他社が組み立てに時間を費やすなか、当社のものは、わずか30秒あまりで稼働できるのです」。

元来、水の専門家ではない。だから、既存の概念にとらわれない。新しい発想で、それも素人、つまり使う側の視点で考えることができる。これが曾布川社長の強みだ。この装置は、エンジンを4サイクルにした以外、構造的には変わっていない。そして発売後36年たった今でも、国内需要の57〜58%のトップシェアをキープしている。



大学産業という社名。原則四大新卒者を採用。一つの資格取得に対して2000円を支給する国家資格挑戦制度。その結果としての、社員の資格保有数140以上という数字。そして社員間で残業時間の貸し借りができるDORA(Dは大学、ORAはイタリア語で時間)という社内通貨の発行などユニークだ。

「根が横着だからね。一般的にこれで良しということにも不満を持つ。持ったら良くしようと考える。必要は発明の母、そして不満は改良の父だ」。”へそ曲がり“の正体は、”もっと、もっと良いものを“という、理想をもとめるロマンではないだろうか。
 
略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
曽布川 尚民
(そぶかわ たかひと)

昭和12年10月生まれ。
昭和35年3月、東京薬科大学卒業。
同4月、明治商事株式会社(現・明治製菓)薬品部入社。
昭和39年11月、同社を退社し家業の薬局に入る。
昭和42年6月、大学産業株式会社を設立し専務取締役に就任。
昭和58年2月、代表取締役に就任。
平成21年8月、静岡県防災用品普及促進協議会・初代会長に就任。


旬な人 曾布川尚民(前編)

曾布川 尚民
大学産業株式会社 代表取締役CEO

横着と好奇心を両輪に多くを学び、
自分の理想を実現していきたい。


自らを“へそ曲がり”と称してはばからない。門外漢からスタートし、地震対策用の緊急時用浄水装置を自らの手で作り、現在なお国内需要のトップシェアーを有する商品に育てあげるなど、用水から排水・廃水処理など、公共施設や企業の大型施設をはじめ一般家庭まで、水に関することなら幅広くチャレンジしてきた。大学産業の曾布川社長。その“へそ曲がり”人生を、ご紹介しよう。
 
子供の時は、素直でした。

「小さい頃からへそ曲がりだったわけじゃないんですよ。むしろ逆。自分でいうのも何だけど、純朴で素直な子だった。両親とも薬剤師で、その長男として、とても愛情をいただいた。反抗期もなかったくらいでしたからね。大学には、あこがれていた設計に進むつもりでいた。それが、普段は私のやることに口を出さなかった父が”薬科に進んで家を継がないか“って…。何の抵抗もなく受け入れました」。

3年生2学期のことである。今なら、そんな進路変更は学校側が難しい顔をするだろう。当時も、そうだったかも知れない。が、曾布川社長は、親が望むならと迷いなく薬科大学を選んだ。この従順さが、その後の人生の歩き方を考え始めさせ、自称・へそ曲がり経営者を誕生させるようになるのだから、人生は面白い。


先輩の一言に、
青臭い正義感が砕かれた。


「明治商事(現・明治製菓)に入社しました。抗生物質の研究開発・製造に抜きんでていた会社で、大学病院や開業医をまわって販売していく。1年くらい経った頃かな。”医は仁術“だと信じて疑わなかった私が、”医は算術“だと思ったのは…。今は違うでしょうが、青臭い正義感から、医療の世界では雲の上の人と思っていただけに尊敬できなかった」。

ペアを組んでいた先輩に、”会社はお前を成長させるために雇っているんじゃない。より多く会社の利益のために働く人間を雇っているんだ。お前の考えなんか、何の意味もない“といわれた。名のある大学を出、国家試験も一発で取得したという自負は微塵にされた。思い上がりを知らされ、算術が得意な医者にも最敬礼できるようになる。数字は倍になった。社内での評価も上がっていく。仕事も面白くなっていった。しかし、割り切れない何かが残っていた。


曽布川という名前の中に
天職を見つけたんです。


「社会を教えてくれた、”目から鱗“のありがたい一言でした。同時に、俺の人生、これでいいのか?って考えさせられました。会社には何の不満もなかったけれど、このままで自己実現をできるのか?。考え抜いた末、浜松に帰ることを決めたんです」。

父が経営する薬局で働きながら、自分探し。十二支、占星術、血液型…。占いにその答えを求めたわけではないが、運命、人間性を知りたくて、およそ2年半の歳月を費やした。たどり着いた自分の人間性は、横着なのに凝り性、好奇心旺盛だが人まね嫌いのへそ曲がりetc.己の骨格をつかんだ上で起業を考えた。それもナンバー1になろうと。100人が手がけているものでは確率は1%。2人がやっているものなら50%と考える。その上、未来永劫に渡って求められるものを作り上げたい。

候補に選んだのは、食料品・空気・水。朝の早い食料品は自分には向かない。空気も当時はビジネスになるとは思えなかった。残ったのは水。昔から川に流れる酸化鉄、赤錆を”そぶ“と呼んでいたが、自分の出自ともいえる姓そのものが”水“に縁がある事に思いいたった。神の啓示。天職と思い、水の仕事が始まった。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
曽布川 尚民
(そぶかわ たかひと)

昭和12年10月生まれ。
昭和35年3月、東京薬科大学卒業。
同4月、明治商事株式会社(現・明治製菓)薬品部入社。
昭和39年11月、同社を退社し家業の薬局に入る。
昭和42年6月、大学産業株式会社を設立し専務取締役に就任。
昭和58年2月、代表取締役に就任。
平成21年8月、静岡県防災用品普及促進協議会・初代会長に就任。


旬な人 藤田 圭亮(後編)

藤田 圭亮
社団法人 静岡青年会議所 理事長

静岡からの発信が大切。
だから“Cool Shizuoka”


「富士山静岡空港が開港しました。このことは県都を活躍の場に持つ当JCにも大きなチャンス。それも具現化しようと“Cool Shizuoka”というプロジェクトを立ち上げました。今や中小零細企業といえども海外を望み、視野を広く持たなければなりません。開港を契機に静岡の自然、歴史、文化、そして食などの観光資源を十二分に理解した上で、海外発信しようと考えています」。
空港はあくまでもアクセスのためのハードである。ソフトの充実が、その価値を決める。 “Cool Shizuoka”は、静岡JCが出した、利活用のひとつの提言である。

「JCは、国内はもとより世界中のメンバーと国境を越え結ばれています。団体そのものがグローバルな一面を見せながら、地域に密着するというローカル性も併せ持ちます。地域の観光資源を媒体に世界と有機的に結びつき、観光玄関口のひとつとしてのShizuokaが実現できればと思います。行政始めいろいろな方と力を合わせながら推進し、“国際人としての静岡人”に成長できたらと思うとワクワクしますね」。
 
親子への尊敬。夢の大切さ。
小さい時に育んでやりたい。


「継続している“しずおか未来学園”も、最優先で取り組んでいきます。昨年、私は父親を亡くしましたが、その時、あらためて父の偉大さに気づかされました。この尊敬の念を小さな時から持てたら、親子共々とても幸せなこと。そのためは、愛すべきわが子を守り抜く姿勢、信念が親の背中から伝わるような行動を、一人ひとりが取らなければなりません」。
今年の内容は、子供たちみんながひとつの目標に向かって共に行動し、その達成感と感動を味わうことのできるものだという。

「活動を通じて、友達や親、周りの人たちに“ありがとう”と言える気持ちが芽生えたら嬉しいですね。現在は、とても夢を持ちにくい時代です。それでもなお、夢を持つことの大切を知ってもらいたい。夢をあきらめない気持ちを養っていきたい。この地の将来を担う子供たちが育くまれるのは、そんな行動の中からだと信じています」。

街づくりは人づくり。
だから、まず足元から。

 
「街づくりに寄与することも私たちの大きな役割です。“市民一人ひとりが、自分たちの暮らす街づくりを考え、自分たちの手で”というのが私の考え。ですから、街づくり=人づくりとなります。その第一は、足元のJCから。目的意識をしっかりもって活動することで、人を一回りも二回りも大きくしてくれます。このことを会員メンバー全員で同世代の人に伝えることが大切だと思います」。
成長した体験を自ら持つだけに、JCメンバーでの経験が人づくりにつながると固く信じている。そして、実際にその思いが強いから、ひとりでも多くの人が会員となることを、理事長自身が望んでやまない。

「本年度に設立した“United Children”も、人づくりプロジェクトの一環です。これは今まで街づくりに参画する機会の少なかった子供や中高生などの若者を私たちがサポートしようという試みです。必ず斬新で独創的な視点からの街づくりのアイデアが見られるものと期待しています。同時に、若者たちの街づくりへの参加が世代間の垣根を取り外し、多様なコミュニケーション生み出していくでしょう。目指すものは数ありますが、メンバー全員の意識の向上を促しながら“つよいShizuoka”を目ざしていきたいと思います」。



「小学校6年までは、朝は父と家のどこで出会っても土下座で“おはようございます”でした」。家庭は、とても厳しかった。だが、そんな存在感のある家庭を、自分も築きたいと考えている。
「6歳と3歳の子供がいます。仕事が終わるのが夜遅いですから、一緒に時間を過ごすこと簡単ではありません。ただ、“とうかい号”の出入港の送り迎えは呼びましたし、中国杭州の店舗にも連れて行きました。私が、外で何をやっているのかを見て欲しいし、感じて欲しい。いろいろなものを見せたいですからね」。

一緒に過ごす時間が持てない親は、時間が許す時、子供に媚びるように甘やかすことが多い。しかし、藤田理事長は違う。時間がなければないなりに、方法はいろいろあると考える。常に前向き。だからこその今度の就任である。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

藤田 圭亮
(ふじた けいすけ)
‘78年3月、静岡生まれ。’95年3月、愛知大学経営学部卒。
【仕事の略歴】’95年、JTB入社。
‘98年、㈱なすび入社。
‘06年、㈱なすび代表取締役就任。
‘09年、中国杭州納思比餐飲有限公司、董事長就任。
【JCの略歴】‘06年、常任理事室長。
‘07年、副理事長、第34回JC青年の船「とうかい号」事務局長。

旬な人 藤田 圭亮(前編)

藤田 圭亮
社団法人 静岡青年会議所 理事長

人として、経営者として、親として、そして―JCメンバーとして。
どれも私の顔。だから足元を見つめたい。


昨年、父親であり仕事の師であった藤田安彦会長を失った。経済の悪化が著しい中、景気の風を受けやすい飲食業を切り盛りしていかなければならない状況でもある。そんな厳しい背景の中、静岡青年会議所・理事長に。36歳という年齢を考えれば、来年あるいは再来年であっても、誰からも異論は出なかったであろう。しかし周りの期待の声に応え就任した藤田理事長に、お話しをうかがった。

振りかえったら、
JCが成長させてくれていました。


「迷いがなかったと言ったら嘘になります。ただ、それ以上に強かったのが、「時間がない」ということを言い訳にしていたら何もできないという思いでした。時間は誰にでも平等に与えられているもの。有効に使って自分づくりをすることが大切だと…」。
大学卒業後、当時、文系でNo.1人気だったJTBに入社。自分で商品を作り、販売、添乗員として同行、清算までと一貫してできる仕事に楽しさを覚えた。わずか3年間の中で、大手企業の全国大会ツアーを任されるなど実績を上げていたが、父を思い家業に入った。

「JCに入会して10年。“理事長に”と言われた時に、振り返ってみたんです。その当時の自分を。あの時、社員に今のように考えを明確に伝えることができたか?仕事の相談ができる外部ブレーンを持っていただろうか?今の私と比較して思い巡らせてみたら、藤田圭亮という人間はJCの中で、そして多くの人の中で、成長させていただいたことに思いいたりました。ですから、微力ながらも理事長としてお役に立つことが自分のためにもなるし、自分に課せられた役割でもあると考えたのです」。

支えてくれる人に感謝。
忘れてはいけないことだと思います。


「入会当初の役割は委員会の幹事。会議の出席者の取りまとめというような役割です。その時に気づいたことは、人はJCの活動を通して私自身を、そして私の会社までを評価しているということ、会社の信用を借りてJC活動をさせていただいているということ」。
以前から “2代目のボンボンの道楽”という批判があることは承知だ。だが、それは一部の個に対するもので、会の活動自体はとても有意義であると捉えている。

「謙虚にがんばりなさいという叱咤だと真摯に受け止めたいと思います。先代、会社を支えてくれている社員たちのおかげだという謙虚な心を持つこと。周りの人たちに感謝し、ここで成長し、学んだものを地域や社業にフィードバックしなければ意味がありません。私たちは、人として、経営者として、親として、そして一JCメンバーとしてと、多様な役割を持っています。これらを果たすためには、まず自分の足腰をしっかり据えること。今年度の基本理念に“足元を見つめた自分づくり”を掲げたのは、自らの成長なくしては人のため、地域のために働きかけることはできないという思いからです」。


略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

藤田 圭亮
(ふじた けいすけ)
‘78年3月、静岡生まれ。’95年3月、愛知大学経営学部卒。
【仕事の略歴】’95年、JTB入社。
‘98年、㈱なすび入社。
‘06年、㈱なすび代表取締役就任。
‘09年、中国杭州納思比餐飲有限公司、董事長就任。
【JCの略歴】‘06年、常任理事室長。
‘07年、副理事長、第34回JC青年の船「とうかい号」事務局長。

旬な人 松木一浩(後編)

松木一浩
株式会社 ビオファームまつき 代表取締役

農耕地の7割が中山間地。
ここでの成功が農の未来につながります。


種を蒔いてできたものをマーケットに持っていく。あるいはJAに卸す。この既存のやり方だけでは、農業に広がりはでてきません。”作る“だけではなく”作った後“までをプロデュースすることで、サービス業としての農業を構築させ成功に導くことが使命だと、松木さんはいいます。

「今の農業は、多くが副業として存在しています。しかしそれではいけない。私が目ざすのは、農業の複業化です。畑の中に”レストラン ビオス“をオープンさせたのも、その一環。畑で採れたものを食材として調理しお出しする。それだけではありません。鶏舎、体験農場への展開はもちろん、バイオガスプラントを作り、そこで作ったメタンガスでお湯を沸かしたり床暖房のエネルギーにすることも考えています。そのシステムをソフト化していくことだって、農ビジネスの可能性のひとつだと考えています」。

松木さんは、ビジネスモデル作りの場所として、中山間地を基準においています。その理由を、こう語ります。「日本の農耕地の約7割は、中山間地にあります。昔から多くの方が、そこで作物を作り、暮らしを育んできたのです。そういうスタンダードな場所でビジネスモデルを作り、成功させることに意義があると考えています。汎用的なものでないと、後に続く人が出てきにくいですし、魅力を感じにくいのではないでしょうか」。
”ビオファームまつき“を実験場に、農の将来を考える。松木さんは、今、着実に大地に根ざしはじめている。



「農産物を工業製品のように改良することは、簡単なことではありません。常に自然という不確かなものが関係する。つまり作ることそのものに、ある意味での限界があるのです。だから売ることに楽しさを求めたい」。農業はもっともプリミティブな仕事でありながら、もっともクリエイティブな仕事でもあるという松木さんの話は、農のこれからを指し示しているように響く。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

松木一浩
(まつき かずひろ)

1962年、長崎生まれ。
ホテル学校卒業後、ホテル、レストランサービスの世界へ。
主にフランス料理サービスを担当、90年渡仏しパリのニッコー・ド・パリに勤務。
帰国後、銀座のフランス料理支配人を経て、
恵比寿の「タイユヴァン・ロブション」の第一給仕長を務める。
99年、有機農業の道に進むことを決意し栃木県での農業研修後、芝川町に移住。
現在3haの野菜畑を有機栽培している。
07年、富士宮市に野菜惣菜店“ビオデリ”をオープン、
09年には“ビオフィ−ルド1,000プロジェクト”として畑に加工所とレストラン“ビオス”を建設、
12月8日オープン。
著書「ビオファームまつきの野菜レシピ図鑑」(学研)、「美味しい処方箋、健康漬物」(角川SSC)、「畑からのごちそうレシピ」(DVD自主制作)がある。

旬な人 松木一浩(前編)

松木 一浩
株式会社 ビオファームまつき 代表取締役


とてもプリミティブでありながら、
もっともクリエイティブなのが農業。
だからビジネスになるんです。


霜が降りそうな寒い12月の芝川町の山間。その畑の中で、松木さんは、こう語ります。「これからの農業は、二極化していくでしょう。広い田畑に大量作付けし、効率性を求めるかたち。もう一つが、中山間地の狭小な土地を利用しながら、付加価値で将来を見いだす方法だと思います」。後者を選んだ松木さんに、その付加価値戦略を聞きました。

着ぐるみを脱ぎ捨てて
等身大で生きていこうと思いました。


10年前、芝川町にやってきた松木さん。接客業にやりがいを見出し、ホテルマン養成の専門学校を卒業。以来17年間、ずっとホテル、レストランの業界で活躍してきました。最後の職場は恵比寿の”タイユヴァン・ロブション“。そこの給仕長まで勤めてきた方です。

「西洋、特にフランス料理に惹かれました。それぞれの料理の背景にある美食の物語、そしてサービスの洗練さに、”おもてなし“というものの奥深さを感じたからです。そういう意味では、当時の私にとって、そのお店は最上の舞台だったと思います」。ノルマンジーから切り出した石で再現された城のような店構え。ドーバー海峡で獲れる魚介類などの食材に最高級のワイン。テレビの中でしか見ることのないお客たち。

「ディズニーランドみたいなものです。すべてが用意されているセットの中で、私はミッキーマウスのようにお迎えし、立ち居振る舞う。最初は、それで楽しかった。華やかな世界の中で、メーテル・ド・テール(給仕長)として、いかに人の上に立つか?どれだけ稼げるのか?という価値観で働いていましたから。でも、”自分“という実の部分が見いだせない。そのことで疲れてしまって…」。オペラの舞踏会のようにくり返される毎日の中で、松木さんは等身大の生き方を求めたのです。
 
畑にも性格がある。
だから難しい。だけど楽しい。


芝川町の中山間地で借りた休耕地。ホテルマン生活に別れを告げた松木さんの第二の人生の舞台は、わずか40アールの畑。約1200坪の農地でした。農業で糧を得るためには、けっして広い土地とはいえません。ただ、自分自身を見つめるためには、十分だったのではないでしょうか。

「自分で食べるものは、自分の手で作りたい。美味しいし、新鮮で安い。それにルッコラのような手に入りにくい野菜だって、作ることができる。そうやって、人間らしく生きていこう。いま考えれば甘い話かもしれませんが、生活を180度変えたいと思った時の正直な思いでした。自給自足。自分と女房が足りる分を収穫できればいい。そう考えていましたから、40アールの畑で十分でした」。

就農したのは9月の終わりごろ。にんにくを植え、ほうれん草や小松菜の種を蒔きました。もちろん最初から思い通りになったわけではありません。途中で育たなくなったり、大きくなるはずのものが、小さいままだったり。

「収穫するうちに分かってきたのですが、農地にも性格があるんです。負けん気の強いのもいれば、無口だけど優しい人もいるみたいな、ね。人と同じ。だから、その土地に見合った作物を選び、その個性を生かした仕事をしてあげないといけない。これが骨なんですが、面白いところでもあるのです」。
 難しさの中から面白さを見いだし、楽しさから可能性をふくらませていく日々。農業家・松木さんは、こうして生まれたのです。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

松木一浩
(まつき かずひろ)

1962年、長崎生まれ。
ホテル学校卒業後、ホテル、レストランサービスの世界へ。
主にフランス料理サービスを担当、90年渡仏しパリのニッコー・ド・パリに勤務。
帰国後、銀座のフランス料理支配人を経て、
恵比寿の「タイユヴァン・ロブション」の第一給仕長を務める。
99年、有機農業の道に進むことを決意し栃木県での農業研修後、芝川町に移住。
現在3haの野菜畑を有機栽培している。
07年、富士宮市に野菜惣菜店“ビオデリ”をオープン、
09年には“ビオフィ−ルド1,000プロジェクト”として畑に加工所とレストラン“ビオス”を建設、
12月8日オープン。
著書「ビオファームまつきの野菜レシピ図鑑」(学研)、「美味しい処方箋、健康漬物」(角川SSC)、「畑からのごちそうレシピ」(DVD自主制作)がある。


旬な人 久保田 敬子(後編)

久保田 敬子
有限会社 ラ ナチュレ ジャンティ 代表取締役

チーズは生き物。
ビジネスのために人工物にしてはダメ。


「フランスの山奥の製造所を見学し、そこのチーズを食べさせていただいたんです。同じ名前のチーズなのに、日本で食べるものと全然違う。それは、ビジネスが過剰に介在しているからだと思っています。量産するために機械を導入しますよね。賞味期限を長くするために薬品を使うようにもなる。チーズは生き物です。不自然に大量生産したり、長持ちさせるために薬を使用したりすれば、それは生き物ではなく人工物になってしまいます。だから、チーズ本来が持つ香りが、マイナスイメージを持つ臭いと捉えられるようになってしまっていると思うんです」。

発酵食品を作る環境を少し考えてみよう。日本の代表的なものといえば、身近なものに醤油や味噌などがあるが、昔は家は木造、土間があり、風通しの襖があり、裸電球の下で桶を用いて作られていた。とても自然に近い状態だ。ところが現在では、コンクリートの建物でコンピュータ管理され、プラスチックやアルミ製品が多く使われている。このような環境は、生き物にとって大きなストレスとなる。自然の摂理にそった食の美味しさを訴える彼女の信条と、現状はずいぶんかけ離れているようだ。
 
洞爺湖サミットでのチーズは、
“環境”そして、“尊敬力と調和力”がテーマです。


「2006年に、三つ星レストランであるミシェル・ブラスが入っているウィンザーホテル洞爺の人から、“当ホテルよりジャンティの方がチーズの状態がいい。チーズ熟成庫を作りたいけど、力を貸してもらいたい”とお話しがありました。そこで、私のコンセプトを組み入れたシステムを採用していただき、きちんと保存できるようになってから、お受けしたのです。それがご縁で、2008
年の洞爺湖サミットでチーズ担当として参加させていただきました。私は日本の底力は“尊敬力と調和力”と考えています。ですからサミットの時も、その考えを基本に、57種類のチーズを扱い、最善を尽くしたと思っています」。

首脳陣のガラディナーやランチには、7カ国に敬意を表して日本のチーズで
調和をとるようなプラトーを用意しました。朝食には、各国の方々が自国で目覚めた気分ヲ味わっていただくために、その国のフレッシュチーズをメニューに。もちろん健康な牛からしかできないチーズばかりである。健康な牛は、しっかりした環境のもとでしか育たないため、サミットのテーマである“環境”とも合致する。彼女ならではの、きめ細やかな配慮とメッセージが込められた仕事である。



朝起きたら、10分ほど瞑想をする。「自分の内なる声を聞くため、そして自分を見つめる時間をとることは、私にとってかけがえのないことです。その時に、今日するべきことの優先順位、一番大切なことも思い描くの。就寝前にも、何か問題があった時、その答えが欲しいと念じてから眠ります。すると、翌日すぐに答えがやってくることもありますし、時間が経ってからやってきたりします」。

思い描いたことは、すぐに実行の人だが、実は自分のあり方を潜在意識に働きかけながら今までやってきたのだろう。その連続が、今の彼女を形作っている。


略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

久保田敬子
(くぼた けいこ)
静岡市の「ジャンティ」メートル・ドルテ。
1985年にレストラン・ジャンティに入店し、スイス、フランスでもサービスを学ぶ。
1944年以降『料理王国』『月刊専門料理』でチーズの記事を連載。
1996年、「第1回メートル・ド・セルヴィス杯フロマージュサービス部門」優勝。
2008年北海道洞爺湖サミットではチーズの現場顧問を務める。
フランスチーズ鑑評騎士団会員、NPO法人チーズプロフェッショナル協会理事ほか。
高校にてチーズを通して食育、気づき学の授業を行う。
著書に『チーズのソムリエになる』『チーズのソムリエハンドブック』(共・柴田書店発行)

旬な人 久保田 敬子(前編)

久保田 敬子
有限会社 ラ ナチュレ ジャンティ 代表取締役

チーズは生き物。レストランも、また生き物。
関わる人の考え方で、良くも悪くもなるものです。


「食って“人を良くする”って書くでしょう。
レストランの語源も、“レストレ(回復する)”から来ていて、
元気になれる食べ物や滋養となる飲食物を提供するのが本来なの」と久保田さん。
この10月、レストランのプロデュースに特化した活動に踏み出した、
日本を代表する“チーズのソムリエ”にご登場いただいた。

お店に行き、直感しました。
このレストランで働きたいって。


「マダムのお客様を迎える姿勢、その仕草、そしてお店の壁に掛けられた画家・青木達也氏のノートルダムの絵画、そして美味しい料理。すべてが素晴らしいハーモニーを奏でていて、とても気に入り、働いてみたいと思ったのです。それが、ジャンティというフランス料理店でした。それで、仕事のボスに、“ジャンティで働きたい”と…。もう、25年も前の話です」。

そのボスというのは病院の院長。久保田さんの前職は病院長の秘書だったのである。それも10年以上というベテラン。それまではレストランに行く事はあっても、その仕事に就いたことはない。秘書から飲食へ。ずいぶん思い切った選択に思える。が、現在、日本を代表する“チーズのソムリエ”であり、レストランのプロデュースをする会社の社長である事を考えれば、“ジャンティ”というレストランとの出会いは、運命とも言えるものだった。

話し合えるステージに立つため、
ワインの勉強をしました。


「私の目標は一つ。このレストランを、もっと良くしていきたいということ。だからお客様目線から、“こうすれば、もっと”と提案ばかりしていました。でも、残念ながら耳を貸してもらえせん。レストランの仕事、料理、ワインやチーズのこと、すべてに対して知識も経験がないんですものね。無理のないことだったのかもしれません。その上、“フレンチはかくあるべし”みたいな料理界の常識という壁が立ちはだかっていて、コミュニケーションをとることさえ難しかったんです。とにかく話し合えるステージを持たないといけない。そうだ、ワインを勉強しよう。そう考えたのです」。

思い立ったら吉日。即、実行の人である。東京のソムリエスクールに通い始めた。教科書にはワインの知識がぎっしり。すべてが初めてのもの。乾いた砂が水を吸うように吸収していった。そんな授業のひとつが “ワインとチーズの相性”。ところが、教えられる相性に疑問を持つ。腑に落ちないのだ。自分なりの解答を見つけるために、チーズの世界に踏み出した。

試食のチーズは新幹線の中で。
とにかく基本を身につけたかった。


「元もと、チーズは好きではなかったんです。ところが、あるレストランで白カビタイプのチーズをいただいたの。それが驚くほど美味しかった。今まで食べていたものの質が悪かったことに気づかされました。と同時に、よりワインを楽しんでもらうために美味しいチーズのことを知ることができれば、お客様にも喜んでいただける。そう思い、チーズアカデミーに。また、週2回の東京通いです」。

チーズの原料であるミルクのことから学び、製造工程のこと。どのように育てられ、保存されているのかということ。チーズの知識を蓄えながら、授業の終わりに試食。しかし彼女には、レストランの仕事がある。学校を途中で出ないと、店に間に合わない。そこでチーズをタッパーに入れてもらい、新幹線の中で試食。感想コメントを書いて学校に送る。そんな1年間。自分の意見をはっきり話し、お店に関わる人全員と“お客様へのおもてなしのために”という思いを共有したい。自分の居場所は気持ちよいものでありたいの思い。サービス、ワイン、チーズなど、さまざまなものを身につけっていった彼女の原動力だった。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
久保田敬子
(くぼた けいこ)
静岡市の「ジャンティ」メートル・ドルテ。
1985年にレストラン・ジャンティに入店し、スイス、フランスでもサービスを学ぶ。
1944年以降『料理王国』『月刊専門料理』でチーズの記事を連載。
1996年、「第1回メートル・ド・セルヴィス杯フロマージュサービス部門」優勝。
2008年北海道洞爺湖サミットではチーズの現場顧問を務める。
フランスチーズ鑑評騎士団会員、NPO法人チーズプロフェッショナル協会理事ほか。
高校にてチーズを通して食育、気づき学の授業を行う。
著書に『チーズのソムリエになる』『チーズのソムリエハンドブック』(共・柴田書店発行)


旬な人 青島 孝(後編)

青島孝
青島酒造株式会社 専務・杜氏(杜氏名・傳三郎)

“千年かけたものは、千年朽ちない”。
そんな世界が、自分の側にありました。


最初に、酒造りを思い描いたわけではない。見つめ直した時に頭に浮かんだ“千年かけてできたものは、千年朽ちない”の言葉。思い描いたのは、宮大工や植林の仕事だった。じっくり時間をかけ、チームとして支えあいながら愛でるように確かなものを作り上げていく。それが私の生きる道かも…。半年間も続いた葛藤。悩み抜いた末に選んだのが、最初に選択肢から外した酒造りだった。
「うちの酒蔵の歴史は、200年以上。お米を納め続けてきた農家の方々、売り続けてくれた酒屋の皆さん、数え切れないほど多くの人が関わってきてくれたからこそ、続いているわけです。じっくり育てられ続いてきたものを、簡単にやめてはいけない。日本に戻り、父に思いを話しました。最初は笑われ、次には“甘い世界ではない。すでにスタートが10年遅れている。人の倍がんばっても追いつくまでには、さらに10年かかるんだ”ってね。覚悟の上です。人の3倍やろうと思っていましたから。ただ目ざすものが明確でないと、人はがんばれません。自分にとって酒を造る意味、その方向性を明確にしようと考えたんです。それが、この地でしかできない酒造りです。南アルプスの伏流水である水。地元で作られる原料米。この地域に伝わってきた技。うちの酒を愛してくれる人。そして静岡酵母。この地に根ざしたものだけを酒造りをしようと。信念があったから、やってこられたし、これからもやっていけると思っています」。

酒造りを学びたい。
実家に戻ったのではなく、就職です。 

 蔵には入ったが、社長であるお父さんの下では働かなかった。社長業をしたいのではない。酒造りを学びたい一心で、実家に就職したのだ。修行は前杜氏(親方)のもとで始めた。普通、職人は自分の磨いてきた技を教えることはなかなかしない。が、この杜氏は、お母さんが結婚した年に蔵入りした人物。夫婦とともに青島酒造を盛りたててくれた人であり、生まれた時から彼をかわいがってくれた人でもあった。

「基礎だけで10年かかるところを、5年ですべて教えていただいた。ただ、厳しかったですよ。父には話していませんが、できの悪い麹なんか作ると、顔に投げつけられたりしました。社長の息子として向き合ってくれていたのではなく、酒造りの弟子として対峙してくれていたのです。杜氏のスキルは親方からですが、技術は河村傳兵衛先生から。お二人にはどれだけ感謝しても足りませんが、“喜久醉”という酒を愛する5人のチームで、さらに完成度を高めることで恩返しをしていきたいと思います」。



前杜氏の親方と河村傳兵衛。確かに、杜氏として育ててくれたのは、この二人なのかもしれない。しかし、“蔵を閉める”と決断したからこそ、青島専務は自由に道を選ぶことができ、投資の世界で実績を築き上げてきた。その仕事の中で、自分の生き方を思い悩んだ末、足元にあった酒造りの世界の戸を叩いた。その時、実家の蔵元が “納得できる酒造り”をしていなければ、本当にこの世界を選んだろうか?

“北風と太陽”の話ではないが、結果、杜氏・青島孝を生み出したのは、周りまわって現社長であるお父さんなのではないだろうか。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

青山 孝
(あおしま たかし)
昭和39年、藤枝市生まれ。早稲田大学卒。
証券系投資顧問会社にてファンドマネージャーとして勤務後、渡米。
平成8年帰国、杜氏見習として青島酒造株式会社入社。
平成13年、杜氏代理。平成16年、杜氏就任、現在に至る。
同年、師匠の河村傳兵衛氏により杜氏名“傳三郎”を授かる。

旬な人 青島 孝(前編)

青島孝
青島酒造株式会社 専務・杜氏(杜氏名・傳三郎)

ウォール街でお金を生み出すより、
酒を造る方が楽しい。難しいですけどね。


石数約800石の蔵元・青島酒造。静岡の、いや日本全国の日本酒を愛してやまない人たちから人気を博している“喜久醉”は、この小規模な蔵から生み出されている。
「酒造りは米作りから」と、山田錦の無農薬栽培を地元の稲作農家・松下明弘氏と自家栽培。
水は南アルプスの伏流水を汲み上げ使用。そして静岡独自の静岡酵母。
すべて地元のものにこだわりながら、現在5名の“チーム・喜久醉”の見事なスクラムワークで、年々、完成度を高めている。
杜氏・青島孝氏からお話を聞いた。

“自分の代で蔵はしまう”の父の一言。
私の自分探しの旅の始まりです。


大学2年生の夏休み、彼はバックパックひとつを背負い日本を後にした。皮切りはイギリス。以後、毎年、大学の夏休み2ヵ月、春休みの2ヵ月は、世界を巡る放浪の旅。目的は“自分は、どう生きていくべきか”という自分探しだった。西ヨーロッパから東ヨーロッパへ。中東からアフリカへ。そして中南米へ。沢木耕太郎の“深夜特急”さながらである。伝統ある蔵元に生まれれば家業を継ぐのが一般的だろう。しかし彼には、自らの力で道を探さなければならない理由があった。

「中学2年の時、先代であった祖父が亡くなり、父が継ぎました。当時は、経済成長時代。酒造業は、大手メーカーの大量生産で沸いていたが、地方の蔵元は下請けとして桶売りなどが仕事のメーンで、とても厳しい状態でした。そんな中で父は決断しました。“自分の代で蔵を閉める”と。そして私には“道を見つけ、自分の責任で歩け”と…。継ごうという思いもなかったので辛くはなかったのですが、早いうちから独り立ちの術を探さなければなりません。高校を出て東京の大学へ。休みには海外へと、視野が外へ外へと向かったのは、そんな思いからでした」。

世界経済の中に自分がいる。
本当に、そう感じていました。 


旅の中で、さまざまなものを見るうちに格差社会という政治課題に興味を持った。しかし、その興味は、富の分配という経済問題に変わっていく。世の中を平和にするのは経済。そう考えた彼が、卒業後の進路に選んだのが証券金融の世界だった。

「技術系ではありませんが、手に職をつけプロとしてやっていきたかった。それも世界中どこにいても通用する仕事で、と。そういう意味では、証券や投資の世界はグローバルスタンダード化されていましたから、ピッタリでした。入社1〜2年で数百憶円、3年目には数千億円を扱うようになっていきますが、24時間為替変動に気を配り、熟睡できる夜も持てない。もちろん責任も重くなる。での、その緊張感がとても刺激的でおもしろかった。お金という媒体を通じて世界につながっている。資本主義の先端で、自分が世界経済の一役を担っていると。そんな醍醐味を感じていましたね。28歳の時、ニューヨークの投資顧問会社に転職。アナリスト、ファンドマネージャーとして働くようになりました。もちろん、キャリアアップのためです」。

実績は上がっていく。
でも心はすさむ。なぜだろう?


ニューヨークで働きながら、MBAの取得のため大学院に通った。さらにステップアップするためだったが、自分を見つめ直す機会ともなった。実績が高収入につながり、金銭的には恵まれている。しかし、心は満ち足りてこない。むしろ頑張るほどに、気持ちがすさんでいく。以前から感じていたことではあったが、そんな自分を再認識した。

「すさむのはなぜ?と、原因を考えました。私のような運用担当者は、パフォーマンスがすべて。短時間でいくら稼げるかが人の価値とされる世界です。でも、一人で仕事をしているようでも、支えてくれる人は必ずいる。助け合い、思いやる。それが尊いんだと。考えてみれば、昔から日本人がやってきたことばかり。日本の伝統的な仕事にこそ、自分が大切に思うものが詰まっていることに気がつきました」。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
青山 孝
(あおしま たかし)
昭和39年、藤枝市生まれ。早稲田大学卒。
証券系投資顧問会社にてファンドマネージャーとして勤務後、渡米。
平成8年帰国、杜氏見習として青島酒造株式会社入社。
平成13年、杜氏代理。平成16年、杜氏就任、現在に至る。
同年、師匠の河村傳兵衛氏により杜氏名“傳三郎”を授かる。

旬な人 加藤太一郎(後編)

加藤太一郎
焼津信用金庫 理事長

分からないことは聞いて学ぶ。
知ったかぶりはいけません。
 

「最初の勤務地は静岡です。当然、カブに乗って外回りだと思っていたのですが、意外なことに融資窓口でした。とはいってもサポート役。なにしろ、伝票は切れないし財務諸表を見ても分からない。分からないことだらけで、なんでも聞いてまわっていました。でも、ある意味、運が良かったと思います。新入社員ですから、知らないことは恥ずかしいことではありませんからね。私が、普段から職員に話していることがあります。誰だって、最初は分からない。まずは聞いて学ぶこと。そして納得できるまで勉強すること。知ったかぶりが、一番危険です、と。私の入社時の体験談です。もう一つ、運が良かったなと思うことがあります。融資窓口にはさまざまな企業さんが訪れてきて、いろいろな経営者の考え方などを生の声で聞くことができたこと。入庫したてでそんな貴重な体験をすることは、そうはないですから」。

入庫したその日から簿記の必要性を痛感した。そこで同期入社で商業高校卒業の女性から商業簿記3級の教科書を借り、電車の通勤時間を利用して勉強。理解が進むにつれ、金庫の仕組みはもちろんのこと、持ち込まれる決算書も読めるようになっていく。当時、簿記の資格取得は義務ではなかったが、試験を受け日商簿記3級を取得した。

どの部門に就いても楽しかった。
運が良かったんですね。


「27歳の時に監査、当時の検査という部門に異動になったのですが、最初は、どうして自分が?と、驚きました。内部監査のような仕事は、通常ならベテランの方が就くものですからね。ただ、これも今考えると、後々の役にたちました。というのも、仕事柄、すべての店舗をまわるわけです。当金庫に限らず、どこの金融機関でも立地や客層などの要因により、支店の雰囲気は違うものです。例えでいうなら、静岡では裃を着たパリッとした感じが必要ですが、焼津でそうすると”何を格好つけて“と、なるわけです。本来なら、全支店を異動しなければ分からないことですが、2年間で多少なりとも全体と個々の支店の特徴というものが理解できた。やっぱり、運が良かったんですね」。

40歳を過ぎた頃、総務の課長、副部長を計6年も勤めている。この時のことを振り返っての一言が、「裏方の仕事ができて、大変勉強になった」である。理事長からすれば、どこでどのように働いていても、いつも「運が良かった」であり「楽しかった」となる。前向きに捉え歩み続ければ、いつかは高みに昇っていくということだろう。

一所懸命に耕し種を蒔くことこそ、
私たちの仕事の基本だと思います。


「一口に金融機関といっても、銀行や証券会社、そして私どものような信用金庫など、さまざまです。さらに、全国展開されているところもありますし、特定のエリア内で展開しているところもあり、実にバラエティに富んでいます。当然、どのように成果を得ていくのかも異なるでしょう。比較として例にあげられるのが狩猟民族と農耕民族です。この例えでいえば、信用金庫は典型的な農耕タイプの金融機関だと考えています。ですから、今、目の前のものを収穫できればそれでいいという考え方ではいけない。焼き畑農業をやってしまったら、あとが続かなくなってしまいます」。

農耕民族は、その土地を大切に思い、けして離れることなく、コツコツと耕して将来の実りを育てていく。確かに信用金庫のスタイルと同じである。「だから、ある職員が、ある支店で一所懸命耕したからといって、その本人が成果を手にできないこともあります。でも、その汗が次に続く人の実りとなる。そして、また後続のために耕す。それが私たちの仕事です」。この一言も、今までの自分の総括としての言葉なのだと思う。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
加藤 太一郎
(かとう たいちろう)

昭和22年生まれ。
昭和44年3月、立教大学法学部卒業。
同4月、焼津信用金庫入庫。
平成4年4月、総務部副部長。
平成7年4月、藤枝上支店長。
平成9年4月、静岡支店長
。平成11年4月、藤枝駅支店長。
平成14年4月、審査部長、同年6月、常勤理事就任。
平成19年6月、常務理事就任。
平成21年6月、理事長就任。

旬な人 加藤太一郎(前編)

目の前の収穫だけを考えるのではなく、
将来の実りのために耕さなければなりません。


加藤 太一郎
焼津信用金庫 理事長

別名、まるせい。全国に数多くある信用金庫の中でも、ニックネームを持つ焼津信用金庫。
今年6月、この金融機関に新しい理事長が誕生した。
お話をうかがったのは、昨年の100周年に当たって建てられた新本部。
中庭には焼津港を表現した水盤、外構のレンガには氷庫、
玄関の柱や階段の手すりなどは八丁櫓をイメージした造りとなっていて、まるで博物館のよう。
そんな落ちついた雰囲気の中で、学生時代から理事長になるまでを振り返ってくれた加藤理事長をご紹介します。

地域の歴史、必要性の中から
生まれた信金です。


「まず、焼津信用金庫という名称以外に、なぜ”まるせい“という呼び名が付いているのかをお話ししたいと思います。当金庫の前身である焼津生産組合が創立されたのは1908年のこと。当時、この地の人たちは、漁場である伊豆七島の方まで八丁櫓という手漕ぎ船で行ったといいます。大変な危険が伴いますし、多くの労働力が必要だったでしょう。漁獲量にも限界があります。石油発動機船を…という動きが起こるのも当然のことでした。組合は6隻の石油発動機船を造り、組合員に貸与したのです。屋号は、生産の生を○で囲んで”まるせい“。当金庫は当初から地域産業の牽引役として、必然性の中から産まれ現在の焼津を築いてきたのです」。

1969年に入庫以来、信金マンとして勤めてきた加藤理事長は、話をこう切り出した。なぜだろう?スタートから理事長に就任するまでの行動のすべてに、”まるせい“の名に込められてきた”地域のために“という基本原理は、彼がどの支店に勤務し、どのような役職に就こうと変わることはなかった。そのことを最初に伝えたかったのではないか。信金の歴史を重ね合わせて、自分のこれまでを総括したのだろう。

盛り返し始めた経済。
その血液である金融は、魅力でした。


「父は、割烹旅館を経営していました。大学は法科を選びましたが、実家の仕事を多少なりとも理解しておこうと、大学でホテル・観光の講座を取り、夏休みにはホテルマウント富士に40日間ほどの研修に出かけたこともあります。接客という面では信金と変わりませんし、楽しかったですが後を継ぐことは考えなかったですね。それ以上に、経済に魅力を感じていましたから…。私の卒業時は、東京オリンピック後に下り坂になった経済が盛り返し始めた時期。まさに金融は経済の血液という感じで、金融業界を選んだわけです。ただ、高校の友人たちもそうだったように、長男は大学を出たら地元に帰るという思いが強く、この地に就職先を求めたのです」。

信頼を基本に資金を集める。それを融資することで地域を活性化しながら、そこで営む企業を大きくしていく。それが、地域に根ざした信用金庫のありかただ。しかし経済サイズが大きくなっていけば、比例して金融機関もスケールは大きくなっていく。その原動力となるのがエリアの拡大。彼が入庫したのは、そんな状況の時。焼津信用金庫が、静岡進出の拠点として、当時9店舗目となる静岡支店を開店して3年目の時だった。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
加藤 太一郎
(かとう たいちろう)

昭和22年生まれ。
昭和44年3月、立教大学法学部卒業。
同4月、焼津信用金庫入庫。
平成4年4月、総務部副部長。
平成7年4月、藤枝上支店長。
平成9年4月、静岡支店長
。平成11年4月、藤枝駅支店長。
平成14年4月、審査部長、同年6月、常勤理事就任。
平成19年6月、常務理事就任。
平成21年6月、理事長就任。


旬な人 長島磯五郎(後編)

長島 磯五郎
静岡油化工業株式会社 代表取締役

廃油の実験で、危うく
海の藻屑になるとこだった。


「釣りが好きで用宗港に漁船を持っていましたから、研究・開発前に自分で実験したんですわ。最初はエンジンに軽油を70%、天ぷら油を30%混ぜて走らせたら、なんの問題もなかった。次に廃油をこして使ってみた。1時間経ってもエンジンは止まらない。これなら大丈夫だろうと海に出たんです。ちょうど台風が迫ってきていてソーダ鰹が入れ食い。釣りたくなるじゃないですか?そしたら三角波が起きてきて、岸に戻りだした途端、エンジンがプスッって…。予備の軽油で助かりましたけど、港に帰ったら遭難騒ぎになってた。とても廃油のテストなんていえませんでしたわ」。

機械メーカーの営業マンが社長を訪ねたのは、ちょうどその時のこと。売りにきたのは、植物性廃油再生機。遠心分離器での濾過では、廃油中のゴミを取り除くことができないと困っていた最中である。早速、実際に稼働させている三重を視察。テストではあったが廃油で車を走らせていた。「天の啓示ですわ。しかし私には、困っているときに必ず助けてくれる人があらわれる。乾燥おからの時からずっと研究を手がけてくれている静岡県工業技術センターの松本豊先生をはじめ、多くの人の手助けがあるから今こうしてやっていられる。本当にありがたいことです」。

環境はみんなの問題。
だからオープンにしています。

 
「食廃油やおからから BDFを製造していますが、フル稼働しても生産できるのは日産120t。自社で使用している車は、すべてこれを使っています。ほかにも静岡県や各市町村などの自治体で約160台分、公共交通にもご利用いただいていて、バス15台分が動いています」。年間にするとCO2を約3600t、ドラム缶に換算すると1万8000本相当が削減されていることになる。年間25%の削減をスピーチした首相に、ぜひ一度、見学にきていただきたいくらいだ。

「でも、まだまだ。全然足りない。だから当社では、作り上げてきたシステムや技術を特許にすることなくオープンにしているわけです。多くの皆さんが積極的に活用することで、人類全員のものである地球を守っていけたら、こんなに素敵なことはありませんから。環境はみんなの問題。利益のために隠したり独占しようなんて、とんでもない。それこそ”もったいない“話です。そう思いませんか?」。

■ 

「静岡大火で方々が焼けてしまい、廃墟のようになった町並みの上空に駿河凧が揚げられているのを見た記憶があるんです。小学校3年生くらいかな…とても勇気をもらったことを覚えています。それ以来、駿河凧を作るのが大好きで、もう数千は作ってきました」。40年ぐらい前には、氏のミニ凧が貼られた色紙が市内のほとんどの喫茶店に飾られていたり、ブライダル式場から引き出物としての依頼も来たという。とにかく、長島社長の駿河凧は運気をあげると評判で、出来上がると神社でお払いをし、待つ人の幸運祈願をして渡すという徹底ぶり。残念ながら本業多忙のため現在は順番待ちで、入手は困難。 BDF同様、こちらも思うように量産できないのが、悩みの種のようです。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長島 磯五郎
(ながしま いそごろう)
昭和5年6月6日生まれ。
昭和21年4月、静岡市立高等学校卒業。
昭和35年7月、(株)平金商店取締役就任。
昭和42年7月、平金産業株式会社に商号変更、取締役に就任。
昭和57年4月、株式会社静岡油化設立 代表取締役に就任。
昭和63年2月、静岡油化工業株式会

旬な人 長島磯五郎(前編)

長島 磯五郎
静岡油化工業株式会社 代表取締役

究極の“もったいない”は、
せっかくの技術を独占することです。


捨ててしまえば環境汚染の原因となる植物性廃油をリサイクルすることで、環境負荷を二重に和らげることで注目を集めているのがBDF(バイオディーゼル燃料・Bio Diesel Fuel)。その代名詞ともいえるのが静岡油化工業(株)だ。「メディアの皆さんが、とても素敵に紹介してくれています。例えば“先見の明がある”みたいに…。でも、本当いうと、こそばゆい。自分の意地だけで会社を興し、単純に世の中にある“もったいない”を何とかしようとしてきただけなんです」と長島磯五郎社長。79歳とは思えないエネルギッシュな人物を、ご紹介しよう。
 
自分の力で、納得したい。
だから54歳で起業です。


「会社を始めたときは、ずいぶん反対されました。無理もありません。なにしろ起業しようとした時は、すでに54歳。始めるにあたって買い取ろうという会社は倒産したところ。止めるには、たくさんの理由がありました。なにより端からみたら、起業しなければならない理由が理解できなかったのでしょうね。なにしろ兄の片腕として会社を切り盛りしていたわけですから」。

勤めていたのは、産業廃棄物から飼料を製造する平金産業。社長は、お兄さん。そのNo.2だった。会社は知名度もあり、周囲の人は気を使ってくれていた。でも、みんなが頭を下げてくれるのは、会社の名前に対してだと感じていたという。「すでにあるものの中ではなく、自分が作り上げたもので勝負し、その力を試したかったんです。納得した人生を歩みたい。私の第二の人生は、そんな思いからのスタートでした」。

貴重な蛋白質が廃棄物に。
もったいないでしょ?
 

「豆腐を作る時に、たくさんのおからがでますよね。私が小さい頃、あの戦争がありまして、おからといえば当時は貴重な蛋白源だった。それが社会が豊かになっていくにつれ、牛の餌に使われるようになっていきます。ところが、おからっていうのは水分が85%ほどもあるから、それを餌にすると牛乳が薄くなるといって問題視されているということを知ったのです。栄養食品なのに、餌としても失格の烙印が押されたわけです。結局、産業廃棄物として処理することなった。”もったいない“って思いませんか?」。

多くの人が、もったいないと思うだろう。そして、ほとんどの人は、ここで止まり。長島社長は違った。おからの水分を抜けば、牛の飼料やドッグフードくらいにはなるかもしれないと、おから専用の乾燥機の完成を目指した。「4年後に1号機ができ、乾燥おからを飼料・肥料業界に売り込みに行きました。みんな”キレイですね“ってほめてはくれるが、誰も使ってくれませんでした。採算を考えたら”もったいない“は実現できない。並大抵なことではないと痛感させられましたわ」。
 
ひまわり油で飛行機が飛ぶんだから、
食廃油だってエネルギーになるでしょ。


「それでも”もったいない“を引っ込めるつもりはありませんでした。そんな時です、環境保護、CO2削減が地球規模で話題となったのは。私が吹かしたわけではないですが、神風みたいなものですわ。特にバイオ燃料への注目は高く、外国では、トウモロコシ、ビーンズなどの穀物が代替エネルギーにされ、もてはやされていると聞いたんです。でも、なんかおかしい。食べ物をエネルギーにするわけでしょ。食糧がなくて飢えている人が世界中にいるのに、本末転倒じゃないですか?」。

確かに食糧以外のものが原料になれば、もっと良いのにと思う。長島社長のおからが、ものをいい始める。おからがバイオエタノールになるのは、まだ後の話だが、県の豆腐油揚商工組合の処理指定工場となっていたため、廃油処理の話が持ち込まれていたからだ。「戦争の時は、あちこちでヒマワリを植え、絞った油を使って飛行機を飛ばしていたことを知っていました。だったら植物性の廃油がエネルギーにならないわけはない。そう考えたわけです」。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長島 磯五郎
(ながしま いそごろう)
昭和5年6月6日生まれ。
昭和21年4月、静岡市立高等学校卒業。
昭和35年7月、(株)平金商店取締役就任。
昭和42年7月、平金産業株式会社に商号変更、取締役に就任。
昭和57年4月、株式会社静岡油化設立 代表取締役に就任。
昭和63年2月、静岡油化工業株式会社 代表取締役に就任し現在に至る。

旬な人 坂野友紀(後編)

坂野 友紀 
SOHOしずおか インキュベーションマネージャー

夢のある人が好きだと、
多くの人に会って気づきました。


「新規法人を開拓する中で、多くの経営者や個人事業主とお会いしました。訪問しても”うちは必要ないから“と、取り合ってもらえなかったことも、しばしばです。でも、何度も訪ねて話をしているうちに、自分で気がついたことがあります。十人十色とはよくいったもので、経営者の考え方も人それぞれ。例えば、現状維持でいいという思いで会社を動かしている方がいます。一方では、安定収入を持ちながらも自分のやりたいという気持ちから独立した人もいました。私が惹きつけられたのは、後者のタイプの人。夢をしっかり持っていて、自分の事業を熱く語る人に魅力を感じるんです」。

仕事の成績をクリアすることを考えれば、安定した企業との大口融資を優先する方が簡単だ。しかし、それだけでは仕事に魅力を感じられないし、おもしろみを見いだすこともできない。坂野マネージャーも、同じ考えだったようだ。だから彼は、設立から運転資金計画、顧客の紹介などのビジネスマッチングまで手助けをし、法人営業時代から数々の起業を経験してきている。異動した現在も、以前から親しくしている人とのネットワークを保っているが、その多くはその時の経営者たち。起業には、縁浅からずという人物である。

僕の強みを活かし、
起業・成長・飛躍を手助けしたい。

 
「入居者と地場産業とのパイプ役、起業を考えている人への創業支援、そして地域商店街とのイベントや継続セミナーの企画など、ここは多くの役割を持っています。最初は右往左往でしたが、本店からの先輩である小野マネージャーとの連携で経験の足りなさを補うことができています。とはいっても、一日も早く独り立ちしなくてはなりません。良いところは踏襲した上で、それに自分の持ち味を加え、ひとりでも多くの方に実りある支援ができたらと考えています」。

現在、坂野マネージャーは、SOHOしずおかの支援メニューの”見える化“に取り組んでいる最中だ。また、この10月からスタートさせる”お借り入れ相談会“など、独自色も、すでに打ち出している。SOHOしずおかの最大の役割は、起業・創業に対するサポートだが、それにプラスして資金計画・調達の相談にも積極的に耳を傾けていこうという考えの表れだ。融資提案が強みのマネージャーらしい。

■ 

「趣味は温泉。20歳後半から30歳前半に沼津に在住していましたので、地の利を活かし、伊豆や箱根へ日帰り温泉によく行ってましたね。 特に箱根湯本の”天山“は大好きで、往復5時間の道のりを楽しみながらって感じで、今でも1人で年に2〜3回は出かけます。もちろん、ドライブも大好き」。
温泉を訪ねて走ることも多いせいか、細い道路や曲がりくねった道を好む。ただ、同じ道を走ることはあまり好きでないという。理由は「 同じ道路が嫌というより、同じ風景を眺めることがつまらない。どうせなら違うものを見てみたいと思う」から。仕事だけではなく趣味にまで、新しい刺激を求める人のようだ。
 
略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
坂野 友紀
(さかの ともき)
昭和46年、三重県鈴鹿市生まれ。
平成7年、同志社大学法学部政治学科卒。
同年、(株)静岡銀行入行、三島支店勤務。
平成12年、吉原北エリア(ローン専担)。
平成15年、日興コーディアル証券(株)企業情報部出向。
平成16年、本店営業部(中小企業融資)。
平成19年、中部カンパニー(法人新規担当)。
平成21年、SOHOしずおか インキュベーションマネージャー。

旬な人 坂野 友紀(前編)

坂野 友紀 
SOHOしずおか インキュベーションマネージャー

卵の殻をやぶる支援だけではなく、
成長して飛び立つところまで見てみたい。


公的創業支援施設・SOHOしずおかに、この7月、新マネージャーが誕生した。坂野友紀氏。端整な顔立ち、がっしりとした体格。国営放送の”体操のお兄さん“をやっていても、何の違和感もない風貌だ。
就任間もないということもあり、まだ実例を持って今後の抱負を語ることこそできないが、最後に話してくれたのが、この言葉。「最初は驚き。今は楽しみ。多くの起業に関わり成長を見続けたい。飛躍する瞬間をたくさん見たい」。卵をふ化させるだけではなく、育て、飛び立つところまでを思い描いている。1年もすればインキュベーターの枠を超えるかもしれない。

“え?それ、どこ?”。
驚くばかりの、スタートでした。


「今年の6月24日。異動指令が届きました。内容は、静岡産業振興協会への出向。正直、”えっ、それ、どこですか?“って感じでしたね。”SOHOしずおか“といわれて、やっと自分の行き先が分かったという有様です。その時の私は、本店営業部を始め、合わせて約5年半の歳月を、法人営業という望んだ業務に当て、銀行マンという仕事の面白さ、やりがいを感じ始めていた時だったんです」。

あっけにとられた感じだったというが、驚くのも無理のない話かもしれない。SOHOしずおかが立ち上がったのが、平成13年。すでに8年の歳月が経つ。その間、マネージャーに就任したのは初代の小出氏、2代目の小野氏の2人だけ。その3代目になるなど、誰にとっても想定外のことだろう。しかし、適材適所が人事の要。誰でも良いという話などない。では、その適性は、何なのか?本人は気づいていないようだが、歩んできた経歴とその話の中に、垣間見えるからおもしろい。

地域に根ざした仕事に、
自分の将来を託しました。
 

「卒業は平成8年。就職氷河期のまっただ中です。卒業後にどんな社会に身を置こうか?と考えても、思いどおりにならない時代でした。それでも自分の将来を左右することですから、希望や期待がわき上がります。あの時、最初に思い浮かんだのが、静岡に戻り地域に根ざした仕事がしたいということでした。反面、学んできたもの、住み慣れてきた場所ではなく、自分のまったく知らない仕事も悪くない。そんな思いもありいろいろ志望しましたが、結局、ここを選びました」。

証券マンの父を持つ。小さい時は、父親が働く沼津支店に行ったりもしたというから、難しさを考えることなく金融の世界の雰囲気を受け入れて育っていった。そして、支店を舞台に地元の人たちと関わりを持ちながら働く父の姿からは、地域に密着する仕事のおもしろさを感じ取ったのだろう。就職選びの経緯の中に、地域への思いがうかがえる。

幅広い提案で法人営業を。 
そんなお思いで証券会社へ出向に。


「入行後は、教育や住宅ローンなど個人向け商品などの取扱いを担当していました。今だからいえるんですが、私は入行当初からから法人担当が希望でした。要望や相談もバラエティに富んでいますし、それに対する提案の幅も広い。お客さまを通じてビジネスの現場に一緒に立ち、微力ながらも経営改善や資金計画など直面している問題に対しフォローしていきたい。そんな思いを持って、入行しましたから…。証券会社への出向が決まったのは、そんな時のことです」。

M&Aが地方的にも広がりを見せていた時期でもあり、行内での人材育成ニーズから日興コーディアル証券の企業情報部に出向。TOB(公開買付け)を始め会社更生法、民事再生法などの各種案件に立ち会い、企業が抱える諸問題を肌身で感じ、その解決能力を磨くには絶好の機会を得た。その後、法人担当の業務畑を歩くことになるが、その土台は、この時期に作られたものだ。法人営業での経験があればこその今度の人事。証券会社への出向を含めた今までの経歴の流れからすれば、SOHOしずおかのマネージャー就任は、「あっけにとられた」と驚くほど不思議ではない。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
坂野 友紀
(さかの ともき)

昭和46年、三重県鈴鹿市生まれ。
平成7年、同志社大学法学部政治学科卒。
同年、(株)静岡銀行入行、三島支店勤務。
平成12年、吉原北エリア(ローン専担)。
平成15年、日興コーディアル証券(株)企業情報部出向。
平成16年、本店営業部(中小企業融資)。
平成19年、中部カンパニー(法人新規担当)。
平成21年、SOHOしずおか インキュベーションマネージャー。

佐藤 真琴 旬な人(後編)

佐藤 真琴
一般社団法人ピア代表理事

待っていても、やって来ない。
だから中国に、乗り込みました。


「3年生の夏休み、中国に乗り込んじゃいました。かつらの約8割が中国産。200社くらいに手当たり次第メールを送ったのですが、連絡だけで先に進まない。もう直談判しかないですよね。で、かつら製造の社長に”行くから会ってね“ってメールを送り、青島(チンタオ)で待ち合わせ。工場を見、商品を確かめました。最初は2枚しか注文しないことも、きっちりいいました。厚かましいとは思いません。欲しい人が使えない現状が問題としてあり、なんとかしたいという私の熱意があります。くださいとお願いしているのではない。私の条件でビジネスを考えてくださいという話です」。

多くのメディアが、彼女の中国行きのいきさつを取り上げています。ネットでも読むことができますから詳細は省きましょう。ここで考えたいのは、問題があれば解決法を探し、方法が見つかったら、やってみるという彼女のスタンス。高いのなら安いものを作ればいいが、答えであり、製造元と交渉し直接買いつけるための青島行きが、取った行動です。とても分かりやすい人ですね。信念を貫いた結果、1枚4万2000円からという低価格かつらの提供を実現。在学中28歳の時の起業になりました。

収益が安定しなければ、
ホスピタリティは貫けません。


「かつらばかりが話題になりますが、かつらは私たちとお客さんをつなぐ媒介だと考えています。売るだけなら通販でもいいし、専用の美容室を持つ必要もありませんよね。”ピア“というビジネスモデルは、患者さんのQOL(Quality Of Life)を高めながら、治療を続けられる地域づくりが目標。これを持続するには、ビジネス収益の安定は欠かせません。そこで、かつらなんです。目に見えるからお金を払いやすい。それを作る専門の美容室に来ていただくことで、カウンセリングという目に見えないものを提供することができます。それにかつらを作った段階で”いけるじゃない“と思っていただくだけで、OK。”大変なことに見舞われたけど、治療もやっているし、髪の毛もなんとかなった。これなら…“と前向きになれますからね」。

現在、”ピア“のビジネスモデルは名古屋、北九州、そして静岡と他地域へ展開中。ビジネスモデルの移管に積極的に取り組むとともに、地域の医療機関など多くの地域社会の人たちとの連携の中で、患者さんに持ち上がる問題を解決していくためのロールモデルへと進化させている。



「現実に求めている人に向かって、求められているものを提供する。だからプロフェッショナルとして立ち向かわなければいけません。ボランティアでなくビジネスとして認識すること。”私、なんだか良いことしている“ではダメ。センチメンタルで、こんな大事なこと始めたら持続できないし、迷惑になると思います」。
 彼女の作り上げてきたソーシャル・ビジネスの根底に、ホスピタリティへの強い使命感と、お金の大切さを知った経営感覚が流れていることが、この言葉でも分かるのではないでしょうか。

略歴・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
佐藤真琴
(さとう まこと)
昭和52年、静岡県生まれ。
平成15年、静岡県厚生連看護専門学校入学。
在学中に、資本金5万円で“ヘアサプライ ピア”を起業。
08年度静岡県知事褒賞(男女共同参画) 、
日経ウーマンオブザイヤー'09 キャリアクリエイト部門5位受賞 、
'09経済産業省ソーシャルビジネス先行事例55選 、
'09日本商工会議所女性起業家大賞 スタートアップ部門特別賞受賞。